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シンポジウム/夏期セミナー

2017年シンポジウム・夏期セミナーのご案内

総合テーマ:
「古代のエピステーメーを問う—ヴァリアントを通して」

【趣旨説明】

現在、古代文学研究において解釈を問う主要な方法として挙げられるのは、作品論であろう。個々のテキストに作品という完結した枠組みを見るこの方法は、各テキストの固有性を軽視し、横断的に解釈を付したかつての研究に対する反省から導かれたものであった。
しかしながら、このような方法は作品の固有性を追究した解釈を精緻化させてきた反面、ヴァリアントへの視座をおろそかにしていなかったか。ひとつの作品のなかに、また作品を超えて現れる類歌や類話、異伝、話型の反復などに目を向けるなら、それらが無関係に存在していたとは考えられない。
類似性を持ちながらも差異をはらむヴァリアントを、作品の枠を超えて成り立たせているのは何か。従来の作品論的解釈に閉じていく研究では、このような問いに答えることができない。あり得たかどうかも分からない原伝承への遡及に帰することなく、また作者個人の文学的営為に帰することなく、地下茎のように広がるテキストどうしの関わりを探るには、どのような方法があり得るのか。本企画ではその模索の一環としてヴァリアントを成り立たせるエピステーメー(知的台座)に焦点をあてて考えてみたい。

シンポジウム

日時:7月1日(土)13:00〜17:30

場所:共立女子大学 本館1010教室

パネリスト・題目:
月岡道晴氏「選択的表現としての万葉集の仮名遣い」
西澤一光氏「「ひじり」の造形と時代の知」
北條勝貴氏「宇宙を渡る作法―パースペクティヴィズム・真偽判断・歴史実践―」

シンポジウム要旨:

月岡道晴氏「選択的表現としての万葉集の仮名遣い」

 万葉集の仮名は本当に音を書けているのだろうか。
ことばは音と意味に分けることができるという定義は、ソシュールの指摘以来われわれに共有されている認識だが、しかしながらそれを書き表わす文字は、音声による言語ほど充分に音と意味とを表現できないため、文字表現を行なう際は結果的に、音を中心に表わす表記と意味を中心に表わす表記とのどちらかに偏った手段が用いられることになる。
これを日本の上代語の表記に即して言うならば、訓字主体表記と仮名主体表記との二通りの文字表現が存在することに置き換えることができるだろう。訓字主体表記は意味を書き表わす側面に特化した文字列、仮名主体表記は音を書き表わす側面に特化した文字列とする前提に、われわれは疑いを入れることがない。しかし前稿「「不知代経浪乃去邊白不母」――宇治河邊作歌から見る人麻呂の表記態度について――」(『上代文学』一一八号、平成二九年四月)で、論者は人麻呂の歌表現において、歌全体の文字の表意性を意識して統一的に用いることでイメージを喚起させることのほうにより重きが置かれる際には、上代特殊仮名遣いや清濁など音を正確に記す側面に対しては比較的頓着しない傾向があることを指摘した。万葉集においては仮名が音を書き表わすことに特化しない場合もあるのだ。
そう考える際、どの音にどの漢字によって仮名を宛てられるのかという規則は、そもそもさほど緊密なものでないのではないかとの疑念に行き当たらざるを得ない。日本の古代語の音を古代中国語の文字が有している音で書き表わそうとする際、その間には意外に大きな隔たりがあるのではないか。そうした齟齬が最も端的に現れるのが、万葉集においては二合仮名や略音仮名といった、もともとの漢字音とそれによって表されている日本語の音とが微妙に異なっている場合である。万葉びとはそうした齟齬をどのように乗り越えて万葉歌の文字表記を行なっているのか。具体的な例から示してみたい。

西澤一光氏「「ひじり」の造形と時代の知」

 「ひじり」と言えば<聖徳太子>がまず念頭に浮かぶ。道途に斃れた名もなき百姓に憐憫の情をかけた「聖」なる存在として『万葉集』、『日本書紀』、『日本霊異記』はそれぞれにヴァリアントと呼びうる書かれたテキストをもっている。
もちろん、この三種のテキストの<あいだ>の差異を明らかにすることも重要であるが、本論は、さんざん論じられてきたところの<差異>を生み出しているところの根本にある<知>について考えてみたいのである。つまり、<聖徳太子>説話の生成に関してエピステモロジックな考察はどのように可能なのか、考えてみたいのである。キーワードは「聖」であり、また、「ひじり」だ。
より具体的に言えば、聖徳太子像を貫いて描かれる「聖」の「聖」たる、「ひじり」の「ひじり」たるところを造形する<知>の枠組みにこだわって考察してみようと考えるのである。
ところで、日本史学の分野では、「聖徳」なる造形を「廐戸皇子」(あるいは「厩戸皇子」)に与えたのは『日本書紀』だという言い方がされてきたわけだが、「聖」なる存在と言う風にグリッドを拡大してみるならば、それは『日本書紀』以前に『古事記』にも見出せるのである。『古事記』の仁徳帝もまた「聖帝」と書かれていたのだった。宣長が「古意」で書かれた書物とみた『古事記』にも漢籍の影響があったのである。
つまり、漢字エクリチュールを用いている時点で、すでに古代の書き手は、見えざるエピステーメーの中にいて、自らが知らずにそのエピステーメーの顕現に手を貸しているわけなのである。
問題なのは、「近江荒都歌」の冒頭にある「日知」である。これは「聖」ではないが、「ひじり」というやまと言葉にあたる点で「聖」と響きあっている。「聖」という文字を敢えて避けたのかもしれず、その意味でも問題的である。
結論から言えば、「聖」は「儒」「仏」「道」の三教のいずれにも通ずる概念であり、やまと言葉でよめば「ひじり」となる。たとえば、『霊異記』は仏教思想のうえでの「聖人」を描くのであり、『日本書紀』は道教思想と儒教倫理の双方にまたがった説話を構成している。「ひじり」は「儒」「仏」「道」というカテゴリーのさらに下にある知の層にねざした概念である可能性を窺わせるのである。

北條勝貴氏「宇宙を渡る作法―パースペクティヴィズム・真偽判断・歴史実践―」

 文化人類学における〈存在論的転回〉は、ノンヒューマンに注目しヒト中心主義のディシプリンを動揺させる一方、現行地質年代をアンスロポセン(人新世)とみなす強烈な危機感を内在しつつ、近代科学主義に再考を迫る種々の提言を行ってきた。そのうち、ヴィヴェイロス・デ・カストロの説くパースペクティヴィズム/多自然主義は、民族社会あるいは前近代社会の認識枠組み、とくにヴァリアントの多焦点的な生成を可能にする知のあり方を考えるうえで、重要なキー概念となっている。カストロがアメリカ先住民の研究において見出したパースペクティヴィズムは、日本を含むアジアの文化的古態の研究にも援用しうるのだろうか。また、仮にそれが可能として、あたかも並列(多元的)宇宙の存在を自明 
とみなすような認識枠組みが、真偽判断を通じた一元化の方向へ移行してゆくのはなぜなのか。口承/記述の軋轢、権力の集中/共同体規制といった問題にも注意を払いつつ、シャーマニズム、神秘体験、時間意識、歴史実践などを題材に考えてみたい。

 

夏期セミナー

日時:8月21日(月)〜8月23日(水)

会場:箱根千條旅館

会場までのアクセスマップはこちら

参加費用:2万2千円(二泊三日分)

参加申込
事務局(jimukyoku@kodaibungakukai.org)まで御連絡ください。
例会・シンポジウム会場でも受け付けております。

会員以外の方も自由に参加できます。一泊・日帰り等の部分参加も可能です。ふるってご参加ください。

発表者・題目
大浦誠士氏「万葉集の重出歌」
大塚千紗子氏「皇子転生説話の臺―『日本霊異記』下巻第三十九縁―」
萩野了子氏「序詞形式を支える知のありようについて―平安初期和歌を中心に―」
服部剣仁矢氏「宝剣説話の振幅―記紀のクサナギ剣」

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