シンポジウム/夏期セミナー

2024年シンポジウム・夏期セミナーのご案内

総合テーマ:

テキストに立ち上がる〈声〉

趣旨説明

 古代文学の中には、〈声〉に出されたことをあえて明示的に語るテキストや〈声〉として復元される可能性を志向したテキストが存在する。そこに立ち現れる〈声〉は、あくまでもテキストがもたらす「読み」の産物であり、実際の音声とは性質が異なると言わねばならない。その意味で、テキスト上に立ち現れた〈声〉は、まずはテキストの読みの問題へと還されるべきだろう。
 たとえば、『古事記』や『日本書紀』における天皇の〈発話〉と「風土記」などに見られる古老の〈語り〉とでは、それぞれのテキストが立ち上げる〈声〉の観念には差があるはずである。また、読み上げること自体に宗教的意義を見出す仏典、あるいは神社縁起などのテキストと、神の言葉として再現される託宣、神に向けて唱えられる祝詞とでは、聖なるものを希求しながらも、〈声〉が持つ幻想は異なってくるだろう。
 もちろん、何を〈声〉と捉えるかは、古代のテキストに常に付随する問題である。そうした〈声〉はテキストにおいてどのような意味をもち、我々はそこに何を読み取るべきなのか。
 文字を前提とする世界の中での〈声〉を捉えてみたい。

シンポジウム

【日時】2024年6月22日(土)13:00~17:30

【場所】オンライン(Zoom)併用のハイブリッド形式で開催
・対面 共立女子大学2号館(会場最寄駅:東京メトロ神保町駅)
・Zoom https://zoom.us/meeting/register/tJUvcO6gqj0vGdXBS_X7DXeQk4TQJzzlvm7X 

シンポジウム発表者・題目・発表要旨

鈴木 雅裕「「ことの かたりごとも こをば」攷─系譜と〈声〉の距離─」
 『古事記』上巻にて、「神語」としてまとめられる八矛神・湏勢理毗売・沼名河日売の物語については、散文部分との関わり、あるいは歌を中心とする在りようをどのように捉えるかという問題が存する。人称転換をはじめ、歌謡に見られる第三者的な発想からは、歌謡劇的背景の想定というテキスト以前を射程に入れた見方も出されるが、歌謡を通じて語るというテキスト上の意味を措定することが求められよう。
 そこで表現の問題となるが、記載される四首の歌謡の内、三首の歌謡末尾に表れる「ことの かたりごとも こをば」に注目してみたい。当該表現の把握に関わっては、たとえば、「事を伝える語りごとでも、このことをば(同じように伝えています)」とする見方(神野志隆光・山口佳紀『古事記注解』笠間書院・一九九七)、「私の伝えたいことも、この歌をもって」とする見方(鉄野昌弘「「神語」をめぐって」『萬葉集研究』第二十六集 塙書房・二〇〇四)が現在までに提示されている。しかしながら、その表現が八矛神・沼名河日売の歌謡には見られるものの、湏勢理毗売の歌謡に用いられていないことはいかに考えるべきか。また、『古事記』下巻・雄略天皇条において、雄略天皇・三重婇・若日下部王による歌謡にも同様に用いられることをどのように受け取るべきであろうか。この点については、先行諸説において、なお十分に言及されてきたとは言い難い。
 右の「ことの かたりごとも こをば」をめぐる問題については、テキスト上の問題として総合的に捉えることが求められるはずである。そこで、本発表では、この表現が歌に「語り」を持ち込むものとして捉えられることを確かめるところから考察を進めていく。それを趣旨文に掲げる「テキストが立ち上げる〈声〉」の問題として見据える時、史書というテキストの中において〈声〉はいかなる読みを生成するのか。このことを史書の根幹たる系譜との距離として把捉することを試みたい。

馬場 治「宣命の文体表記と宣読の〈声〉」
 テーマは、即位・改元・譲位といった祭祀儀礼の場での宣読行為を伴う宣命の文体表記にとって、口誦音声と記載文字や宣読と宣命体の相関を考える上で重要な視座である。拙著『宣命体の研究』(汲古書院2023年)では、和文体の下位分類の表記体である「宣命体」とは、「漢字という単一の文字種しか存在しなかった奈良朝以前において日本語散文を積極的に志向した倭文体やまとぶんたいであり、訓漢字万葉仮名交じりの用字法により音訓交用表記された口誦用の文章」と定義づけ、共時的にも通時的にも均質ではない表記の様態から「漢字専用という枠内で文章表記を工夫するしかない」という普遍性と、「文字記載された宣命文は、宣読によって音声言語として具現化される為の台本である」という特殊性を見出した。
 テキストに立ち上がる〈声〉とは、当時の普遍性を踏まえた特殊性を対象とする。宣命は朝堂に参集した皇族や官人へ天皇の大命おほみことを宣命せんみょう使しが代わって口頭で聴かせるための台本であり、その表記体と文体に関する術語は様々だが、例えば奥田俊博『風土記文字表現研究』(汲古書院2024年)が「『続日本紀』所載の宣命のような訓字仮名混交文を「宣命体文」と称する」としたテキストの表記上に〈声〉は託されている。宣命は原則として書面で記され、伝達において口頭で読み上げられる。その際、宣命使は与えられたテキストをどのように宣読の〈声〉へと変換したのだろうか。
  本居宣長『續紀歷朝詔詞解』は、宣命譜に即した巨細長短昂低曲節を伴う朗読説を唱えた。但し、根来麻子「宣命の表記と読み上げ」(『上代日本語の表記とことば』新典社2023年)が「読み手は、宣命書きで書かれた文字列から、書き手(起草者)の想定した文を復元しようとする(=読み上げる)ことになる。しかし、ここで注意したいのは、文の復元が果たして可能なのか、という点である」と疑い、尾山慎『上代日本語表記論の構想』(花鳥社2021年)が「書き手が記す文章をX文章、読み手がそのX文章から取り出す文章をY文章として区別し、特に古代においては、X文章とY文章が必ずしも同一ではない」旨を説いているので、朗読の想定以前にテキストの規範性(訓字のヨミの精度)を考慮する必要がある。
 以上を踏まえ、宣命体文における宣読の〈声〉を探ってみたい。

西澤 一光「解釈学における〈声〉の問題をめぐって」
 〈声〉とは、なによりもまず、〈耳〉による〈聴取〉を経てはじめて受け取られるものです。ところで、「テキストに立ち上がる〈声〉」という問いはどのように問われるべきでしょうか。
 それは必ずしも自明なことではありません。ここでまたしても私は、古代の〈声〉を聴くことを学問の方法として築いた契沖、これをまっすぐに承けた宣長、さらに、宣長から国学のモチーフを批判的に継承した折口信夫、また、以上のすべてから果実を収穫した西郷信綱という学的血脈に目を向けたいと考えています。
 今はなき「国学」という、この学的系譜をなした人々は、共通して、古典解釈の方法を自覚的に確立し、かつ、解釈上の問題として〈声〉にまつわる問題を中心ないし出発点にすえています。彼らは、古典テキストの〈声〉を聴取することを通じて自己の世界認識なり哲学なり思想なりを構築しています。古代人が何を見て、どう感じ、どのように表現しているかを解きほぐすことを通じて、人間普遍の問題に到達しようとする、そこに彼らの学問上の方法意識は向かっています。
 一方、テキスト le texte の概念化は、フランス思想界で洗練されてきました。それは、ソシュールの言語学(ラング/パロールの生成的循環を核とする)にインスパイアされつつ、フーコー、バルト、クリステヴァ、デリダらの言説を軸として展開したと概括してもさほどおかしくないでしょう。
 彼ら・彼女が見るところのテキストとは、諸テキストの断片の接ぎ木と嵌入、意味の生成と意味のずらしなどの諸操作を通じて、織り上がり、紡ぎ出されるものを意味します。
 ゆえに、「テキストに立ち上がる〈声〉」とは、古代の人々が立っていたテキスト空間を歴史的に定位すると同時に、そこにおいて紡がれ、織り上げられる〈声〉を意味します。
 本論では解釈学としての国学がいかに「古代の〈声〉」を問題化し、聴取しようとしたかを見ていくことになるでしょう。

夏期セミナー

【日時】2024年8月23日(金)13:00~18:00、24日(土)10:00~18:00

【場所】オンライン(Zoom)併用のハイブリッド形式で開催
・対面 八王子・大学セミナーハウス(会場最寄駅・停留所:JR八王子駅、京王線北野駅・京王バス野猿峠)
・Zoom https://zoom.us/meeting/register/tJEscO2vqzIvHtRlI0vTC4gNLUnNXy8r3PO6

※夏期セミナーは事前申し込みが必要です。下記の申し込みフォームからお申し込みください。締め切りは7月27日(土)です。なお宿泊費等は23日の発表後に両日分まとめて集金します。
【申し込みフォーム】https://forms.gle/RA6BSv6GQnSjEEhN9

夏期セミナー発表者・題目・発表要旨

佐竹 美穂「『豊後国風土記』「慍湯」の「人之声」について」
 『豊後国風土記』日田郡の五馬山の記事について検討する。五馬山条には「慍湯」が「人之声」を「聞」き、「驚」き「慍」る様子が書かれる。現代の用語で言うところの擬人化表現が用いられており、風土記においては極めて珍しい例と言える。本発表では、「湯」を人に擬する表現を導く「声」について考えたい。
 「声」の用例を見ると、何らかのメッセージを伝えるものとして古代の文献上に表れている。『日本書紀』・『古事記』で声を発する主体は、多く「鳥」や「鹿」などの動物、「鼓」や「琴」などの楽器である。人が「声」を発する場合もあるが、「哭声」や「歌声」などとあって通常の言葉とは異なることが示される。「声」は言語とは異なる方法でメッセージを伝えるものであることがわかる。また、それを受け取るのは主に天皇や神であり、「聞」や「悟」などの語によって受け取ったことが示される。
 また、風土記の「声」を発する主体を見ると、『豊後国風土記』速見郡・玖倍理湯井の記事で「湯井」に向かって「人」が「発声大言」し、また『常陸国風土記』行方郡・夜刀神条では「蛇」である「夜刀神」に対して「壬生連麿」が「挙声大言」することが書かれる。『出雲国風土記』にも嶋根郡・加賀神埼条でも「窟」を通るときに必ず「人」は「声」をあげる記述があり、風土記で「声」は「湯」や「窟」や「蛇」に対する際の「人」の側のツールとして用いられることがある。『古事記』や『日本書紀』とは異なる「声」の在り方だが、対象に何かを伝える働きは共通している。
 以上を踏まえて五馬山の記事を検討すると、「湯」が「人之声」を「聞」く、という表現は、「慍湯」を、「声」を受け取ることができる通交可能な存在として位置づけようとするものだと考えられる。『豊後国風土記』五馬山条で「声」は、人ではない側へ投げかけられるものであり、〈声〉は人とその間をつなぐものとして立ち上げられている。 

保坂 秀子「『万葉集』の「陸奥国」─天皇の〈声〉と巻十六・三八〇七番歌から」
 『万葉集』に「声」を見出すならば、一首一首の歌はもとより、書かれていること全てを「声」ということが可能である。従来の研究においても、歌や題詞・左注の中に古代を生きた人々の「声」が見出されてきた。本発表では、『万葉集』が文字テキストである点に注目し、「〈声〉」を取り扱っていく。
 『万葉集』において「声」とは、「鼓之音者(つづみのおとは)雷之聲登(いかづちのこゑと)」(②一九九)、「百鳥之言名束敷(ももとりのこゑなつかしき)」(⑥一〇五九)、「蟋蟀之鳴音聞者(こほろぎのなくこゑきけば)秋付尓家里(あきづきにけり)」(⑩二一六〇)、「鳴蝦聲谷聞者(なくかはづこゑだにきかば)吾将戀八方(あれこひめやも)」(⑩二二六五)などの用例に見られるように、人間に限らず動物や虫の音声器官を通して発する音、楽器や雷など物の振動や天象の音をも表わす言葉である。人ならぬものや無生物まで含む「声」の現象は、受け止める者がいなければ、発せられた時点で消え、残らないという特徴がある。一方で、他者が聴覚器官で受け止め、「聞(聴)く」ことから、「伝達」「意思疎通」「堪能」といった、人の営みにつながる。その内容や「声」を発する主体によっては、忘れてはならない「〈声〉」、守らなくてはならない「〈声〉」などが生まれ、ここに保存・記録を必要とする「知としての〈声〉」が出現する。古代において、それは現存するテクストの文字から知ることができる。
 近年、古代文学会では、文字で書かれたテキスト及びそれを構成する語句が、外側のテキストをも引き込み、古代の「共有知」を生み出す「結節点」となっていることを明らかにしてきた。本発表では、この手法を用いて、文字で書かれた巻十六・三八〇七番歌及び巻十八・四〇九四番歌における「〈声〉」を取り上げる。そこには宣命と結びついた「天皇の〈声〉」があり、これに応じる「陸奥国の〈声〉」がある。この「〈声〉」の往還は、「天皇の〈声〉」の届く北限を示し、『万葉集』における「陸奥国」のあり方にも結びついている。それはどのようなものであったのか考察してみたい。

間枝 遼太郎「住吉大神の〈声〉」
 住吉大神は、平安時代以降には和歌の神となっていくように、言葉との関係において特徴的な側面を持つ神となっているが、特に古代の住吉大社の縁起にして社家津守氏の氏文でもある『住吉大社神代記』の中では、その言葉との関係が顕著である。例えば『住吉大社神代記』前半部の『日本書紀』利用記事(「住吉大神顕現次第」)では、『日本書紀』にもある神功皇后への託宣以外にも、住吉大神が皇后や軍勢に対して言葉を伝えたとする記述が多く挿入され、言葉を発して天下の趨勢を左右する神として位置付けられる。また、後半部の(『日本書紀』に拠らない部分が多い)独自記事では、「○○本記」などと題される各神領などの由来記事の多くに、住吉大神の言葉が明記される。
 その中でも注目されるのは、『住吉大社神代記』において特に強調したいものと目される主張が、住吉大神の言葉によって導かれるものという形をとる点である。『住吉大社神代記』の中では、社家津守氏は罪を犯しても罰を受けないという特権を持つと説かれるが、それは「もし手搓足尼(津守氏の祖)の子孫に罪があっても、罰を与えてはいけない」という住吉大神の言葉によって宣言される。また、後半部で常に主張される広大な神領の存在は、様々な住吉大神の言葉によって保証される。『住吉大社神代記』の主張は、神の言葉によって立ちあらわれてくるのである。
 そして本セミナーのテーマと関わって興味深いのは、この住吉大神の言葉が、テキスト上で神の肉声として表現される場合があることである。傾向として、古代の神は人間の前に姿を現さず、意思を表出する際は夢告や巫女などへの憑依といった託宣の形をとることが多い。それに対し、『住吉大社神代記』の住吉大神は肉身をもって人間の前に姿を現し、肉声をもって言葉を伝える(これは『伊勢物語』百十七段とも共通する)。このことは住吉大神が現神・現人神とされることとも関係しているが、それがいかなる意味を持つのか、本発表では考えてみたい。

軽部 利恵「唐招提寺文書「家屋資財請返解案」における〈声〉の機能」
 唐招提寺に現存する「家屋資財請返解案」と呼ばれる奈良時代の文書は、欠損が多いが、父母の家屋資財を取り返したいという内容が、解の体裁を用いて記される。これについて発表者はすでに学会発表を行っており(要旨は『訓点語と訓点資料』147・149に収載)、その中で本文書は異なる三つの内容に区分され、それに伴う形で三つの表記スタイルを有するものと分析した。この表記スタイルとは、(1)漢文のみで書かれるもの、(2)漢文に小書きの仮名および「厶甲」が現れるもの、(3)「厶甲」が現れず小書きの仮名が現れるものの三つであり、(2)・(3)の文章は、「宣命書き」に該当するものである。本発表では、一つの文書内部で、なぜ上記のように異なる表記スタイルが採られているのか、ということを問いとして設定し、言語がテキストに落とし込まれるそのプロセスをめぐって考察を深めたい。
 本文書のテキストは、当然のことながら書かれたものであり、文章中に現れる語句・表記に着目しても、整理された書記言語としての様相を見出すことが可能である。解の訴えの内容が文字化されるに際しては、声に出されて訴えられたことば(あるいは頭の中にある文字化される前のことば)が背景にあり、それらの言語にまつわる様々な要素が捨象されて、書記言語として整えられるものと思われる。そこで、一人称用法の意味を持つ「厶甲」という語句を、自身の境遇を訴える主体として解釈すると、本文書テキストでは、逐一主体が明示されており、整理された書記言語とは異なる要素として分析される。この点をふまえて、本発表では、小書きの「厶甲」を含む(2)の文章について、声に出して自身の被害を訴える、その様子が反映されたものと考える。文章中に散見する「厶甲」については、音声言語らしさ――つまり〈声〉を表出するものとして配置されているものと捉える。