2023年シンポジウム・夏期セミナーのご案内
総合テーマ:
「書記様態の力学」
趣旨説明
書かれたものそれぞれが有する書記様態は、テキストを読むことにおいてどのような作用を持つであろうか。ここでいう書記様態には、たとえば表記に用いる文字種の違い、題詞(詞書)や左注の有無、韻文と散文または和歌と漢詩などの異なる文体の同居、さらには傍訓や書き入れの有無といったものが含まれる。各々の書記様態には、それに則した読みを生成させるメカニズムがあるはずである。
こうした書記様態による読みの生成作用においては、ある読みの可能性が開かれることによって、別の読みの可能性が閉じられるという事態も想定される。訓点を付された漢字テキスト、題詞や左注を伴う歌などは、それによって特定の読みの方向性が与えられているとともに、そこから外れた読みが排除されていると見ることができよう。逆に、そうした要素を伴わないテキストはそのことで読み手の想像力を惹起し、多様な読みの可能性に開かれているとも言える。
本年度のテーマは、テキストの書記様態が生じさせる作用に焦点を当てることで、その力学を浮かび上がらせてみたい。
シンポジウム
日時:2023年6月24日(土)13:00~17:30
場所:ハイブリッド形式(会場:共立女子大学2号館606講義室)
※夏期セミナーとは会場が異なりますので、ご注意ください。
参加申込:
対面参加とオンライン参加の場合とで申込フォームが異なります。該当する参加方法のリンクにて、参加申込みいただけますよう、お願いいたします。
①対面で参加する場合
②オンラインで参加する場合
※オンライン参加の場合、登録後に当日のZoomのURL、発表資料ダウンロード先のURLが記載されたメールが届きます。なお、発表資料については、シンポジウム当日の午前中にアップロードを予定しております。
パネリスト・題目:
松田 浩「『萬葉集』巻五の書記様態―歌集として読む―」
茂野 智大「『萬葉集』巻十六・能登国歌三首―左注の語りと沈黙―」
萩野 了子「修辞を成り立たせる条件」
発表要旨:
松田 浩「『萬葉集』巻五の書記様態―歌集として読む―」
『万葉集』巻五は、万葉集第一部(巻一~巻十六)の中にあって特異な様相を呈する。 まず第一に、巻五全体を括る「雜歌」の標題が見られるものの、紀州本や広瀬本などの非仙覚本系統にはそれがない。本来は「雜歌」の部立がなかったと考えれば、第一部の中にあって部立がない特異な巻ということになる。仮に「雜歌」の部立を認めたとしても、そこには、「日本挽歌」などの所謂「挽歌」に分類される歌々や、書簡のやり取りなど「相聞」に分類される歌々が含まれるのであり、いずれにしても『萬葉集』第一部のありようから外れることになる。そして第二に、作者の扱い方である。巻五巻頭歌の題詞には「大宰帥大伴卿、報凶問歌一首」と作者名を記し、巻末の作者未詳歌の左注に「作者未詳。但、以裁歌之体以於山上之操、載此次焉。」と記すありかたには、一見すると巻五は歌の作者名を明確にしようとしているようにも見える。しかし、「松浦佐用姫歌群」にはこれを統括する題詞が付されず、その冒頭歌に続く歌々も「後人」・「最後人」・「最々後人」の「追和」とのみあってその作者名が記されない。こうしたありかたは、「遊於松浦河歌群」においても同様である。
そして、第三に一字一音表記という歌の表記のありようは、それまでの巻一から四までの正訓字主体表記とは著しく異なるという点である。こうした特異なる様相は、これまでの編纂論では原資料や編纂過程の問題として、書翰を切り継いだためであるとか、複数の資料から歌が追加されたために生じた矛盾などと論じられてきた。だが本発表では、こうした〈矛盾〉と見える点を、巻五というテキストが歌なるものをいかに捉え、その歌の心の主をいかなる存在としてあらしめようとしているのかという問題として論じたい。この点を、巻頭歌の導かれ方と巻末の左注の付され方、「為某」という題詞と作者を示さぬ歌のありかたから読み解いてみることとしたい。
茂野 智大「『萬葉集』巻十六・能登国歌三首―左注の語りと沈黙―」
『萬葉集』巻十六は「有由縁并雑歌」という単一の部立によって構成され、そこには他巻とは異なる趣をもった様々な「由縁」を伴う歌々が並んでいる。しかし、中には「由縁」が記されていない歌もあり、それらにも「本来は「由縁」ないし「由縁」らしき言伝えが存したはずだとの判断があり、その探求を断念したところに、類別・類題をもって編纂する方向への切り替えが計られたのだろう」(『万葉集全注』、芳賀紀雄「概説」未刊)とされる。
本発表で扱う能登国歌三首(三八七八~八〇)は、題詞に「三首」とまとめれられているにもかかわらず、「由縁」がその「三首」中の第一首にしか存しないという特異なあり方をもつ。本巻のその他の歌群は、題詞のいう「○首」全体ないしはその前後の関連歌をも含んだ歌群全体を覆う「由縁」が記されているか、もしくはそもそも由縁が記されていないか、のいずれかである。唯一本歌群に近いあり方を示すのは長忌寸意吉麻呂歌八首(三八二四~三一)で、そこでは能登国歌三首と同じく第一首目にのみ由縁が記されている。ただし、意吉麻呂歌八首の場合は三八二五以下の七首にもそれぞれの隠題(三八二四では左注に語られていたもの)を簡潔に明示する題詞が付き、これが由縁の一端をなしている点で、やはり能登国歌三首の特異性は動かない。
その能登国歌三首は、第一首と第二首とが「熊来」という地理的基盤、内容自体の戯笑性、囃子詞を含む謡物的特徴、旋頭歌的歌体といった共通項により緩やかなまとまりをなし、そこに第三首との差異が存する。一方で第二首と第三首とに目を転じると、内容面では飲食物への関連性をもつこと、形態面では由縁が記されていないことに、二首間の共通項が見出される。こうしたテクストのありようを巻十六という枠組みにおいて見た時、書かれていない第二・三首の「由縁」にまで及ぶ想像を惹起する力学の発現を認めることができる。かような力学の産物としての先行諸注釈の理解も分析対象に入れつつ、本歌群がいかなる読みを生起させるテクストとしてあるのかを考えてみたい。
萩野 了子「修辞を成り立たせる条件」
我々が和歌に対峙したとき、これは「海松布」と「見る目」の掛詞であるとか、「長々し」をつなぎ言葉とする序詞であるとかいうように、修辞技法を特定して解釈するためには、それぞれの技法が自分自身を成り立たせる条件を満たしている必要がある。掛詞にしても、ただ闇雲に同音異義語を見つけ出して修辞を指摘するものではない。例えばその語を巡る言葉の連鎖や、一首を通底する物と心の対比が見出だせてこそ、その技法は成立する。序詞ならば、物と心の対比が前半句と後半句で成される様式に気がつけば、掛詞よりも強固な普遍性をもって、それを序詞として読むことが出来る。縁語・掛詞、そして序詞は、一首の内部に修辞を成り立たせる条件が揃っているのであり、逆に言えば、一首内部でそれが完結出来ないのであれば、ほんの例外を除き、これらの修辞は成立しないのである。
では、広義の掛詞ともいうべき、物名歌や折句沓冠歌はどうであろうか。上記の事柄に照らしてみれば、これらの修辞は全くその性質を異にしていることが分かる。物名や折句が成立する条件は、歌の外側に存在する。隠し込まれた物の名前や、その歌が詠まれた状況を示す題詞、詞書が記述されることで初めて修辞成立と言えるのである。歌単体に向き合うならば、それを物名歌として解釈することは、寧ろ許されない行為となるだろう。折句歌もそれに準ずる技法と言えるが、歌の外側にある情報が無いまま折句に気がつき賞賛された、廣幡御息所の話もある。こうしたことから、詞書という書記情報の他に折句を成立させる条件があることを知ることが出来る。これにはいくつかの条件を指摘出来るだろうが、何よりも重要なのは“和歌を書くこと”にあるという結論を目指し、考察を行いたい。
夏期セミナー
日時:2023年8月18日(金)13:00~18:00、8月19日(土)10:00~18:00
場所:ハイブリッド形式(会場:東京都立大学 南大沢キャンパス 1号館103教室)
※シンポジウムとは会場が異なりますので、ご注意ください。
参加申込:
対面参加とオンライン参加の場合とで申込フォームが異なります。該当する参加方法のリンクにて、参加申込みいただけますよう、お願いいたします。
①対面で参加する場合
②オンラインで参加する場合
※オンライン参加の場合、登録後に当日のZoomの URL、発表資料のダウンロード先のURLが掲載されたメールが届きます。なお、発表資料については、シンポジウム当日の午前中にアップロードを予定しております。
発表者・題目・タイムテーブル:
【1日目】18日(金)
13:00〜13:10 主旨説明、注意事項説明
13:10〜15:10 服部 剣仁矢「「名」が示されるということ―『古事記』の刀剣名提示から」
※発表と質疑の間に10分休憩
15:30〜17:30 小野 諒巳「春日皇女詠歌(紀97)における地名―『日本書紀』の内と外―」
※発表と質疑の間に10分休憩
17:30〜 明日の予定説明
【2日目】19日(土)
10:00〜10:10 注意事項説明
10:10〜12:10 尤 海燕「『万葉集』4292番歌再考」
※発表と質疑の間に10分休憩
13:00〜15:00 月岡 道晴「万葉歌の表記における訓仮名の位相」
※発表と質疑の間に10分休憩
15:30〜17:30 総括・討論
発表要旨:
月岡 道晴 氏「万葉歌の表記における訓仮名の位相」
正訓字は意味が中国語で音が日本語、正漢字は意味が中国語で音も中国語を用いる。訓仮名は意味を考えずに日本語の音を用い、音仮名も意味を考えずに中国語の音を用いている。意味も音も漢語のものを用いない訓仮名は本来の漢字から最も離れた用法であり、その拘束から最も自由な用法とも言える。限定的な例しかない正漢字を外し、残る三字種を万葉歌の表記でどう運用しているのか一覧すると、総て正訓字で記す人麻呂歌集詩体歌と、自立語に正訓字をあて付属語は音訓の仮名が担う訓字主体表記巻の歌、そして題詞や漢文序は漢文で記しながら歌は総て音仮名が担う、大伴氏関連の巻の三類にまとめられる。訓仮名は主たる表記要素でないし、使わなくても表記できるようにも見える。ではなぜこれが万葉歌に用いられるのか。発表及び質疑応答からこの疑問の解決に近づきたい。
尤 海燕 氏「『万葉集』4292番歌再考」
大伴家持の4292番歌は名高い「春愁」の歌として従来多角度から論じられてきたが、「ひばり」に対してはさほど考察されていないようである。本発表では、「ひばり」に焦点を当て正面からこの問題に取り掛かろうとする。まず、「ひばり」と「鶬鶊」の異同を確かめ、家持の使い分けを指摘し、そして『古事記』や『万葉集』当該歌以外の用例でその特異性を確認する。それから『崔禹錫食経』の伝来と利用を考察した上、『崔禹錫食経』の「雲雀」(ひばり)から『文選』の「雲雀」(鳳凰)へと、4292番歌において同形漢字によるイメージ喚起の可能性を示唆しつつ、『古事記』からの系譜と家持歌日記の文脈の中で解釈の広がり(統一)を図る。同時に、「ひばり」と左注の「鶬鶊正啼」との力関係も考えてみる。
服部 剣仁矢 氏「「名」が示されるということ―『古事記』の刀剣名提示から」
「成神名」のように、上代文献には「名」が提示される場面が多数存在する。これはテキストが自らに対して言及する表現であり、「此云」等の注釈的表現と同様に、読み方を方向づける表現といえる。本発表では、これを読みに作用する書記様態として考える。『古事記』において、「名」の提示のほとんどが神名・人名だが、その中には刀剣の「名」を提示する例が三例ほどある。これは他の武器には見られないものであり、刀剣を特徴づけるものといえる。これまでの研究では刀剣の「名」の名義は考察されても、「名」が提示される意味については明確にされてこなかった。加えて、このように「名」の提示を問題として考えると、固有名詞とみられる「草那芸之大刀」が「名」として示されないという問題も見えてくる。本発表では、このような刀剣の「名」の提示について考えることで、「名」を示すこと(あるいは示さないこと)の読みに対する作用の一端を明らかにすることを目指す。
小野 諒巳 氏「春日皇女詠歌(紀97)における地名―『日本書紀』の内と外―」
『日本書紀』の歌のなかには、たとえば「青垣 山籠れる 倭し麗し」(景行紀・22番歌)と「東二有美地一。青山四周」(神武即位前紀)などのように、異なる巻の散文叙述との間に共通する表現をもち、そこに独自の意味を付加されたと思しい例がある。王権の歴史における過去と現在とを歌と散文の表現によって繋ぐ手法は、『日本書紀』において歌が時として、その歌われる場面と過去の歴史とを繋ぐ回路として利用されている、と言い換えることもできるだろう。
『日本書紀』継体天皇七年九月条にみえる勾大兄皇子と春日皇女との婚姻記事は、長歌の贈答(紀96・97)を伴って描かれる。しかし両歌の表現には贈答歌としての緊密な繋がりを看取し得ず、とりわけ紀97は解釈も定まらないため、問題が少なくない。本発表では紀97に詠みこまれる地名「泊瀬」「御諸」「磐余」が『日本書紀』の内と外とでいかに描かれているのか検討し、紀97の地名叙述が果たした役割を論じていく。