シンポジウム/夏期セミナー

2025年シンポジウム・夏期セミナーのご案内

総合テーマ:

立ち上がる〈実態〉をいかに捉えるか

趣旨文

 かつて、作品の成立事情や作者の実像、ひいてはそれらの歴史的背景が、テキストから抽出された実態的なるものの蓄積によって、数多く構築されてきた。今日の目で見れば、それはあくまでもテキストの産物、すなわち括弧付きの〈実態〉であり、そのことにしばしば無自覚であった点に問題があったことは言を俟たない。そうした反省から現在ではその〈実態〉すら忌避する向きも見られる。だが、長い間当然のようにテキストから実態が読み取られてきた研究史は、それ自体テキストがもつ作用に方向づけられたものとも捉えられよう。ならば、〈実態〉への言及を必要以上に忌避することは、かえってテキストを無視することになるのではないか。
 あるいは古代文学研究と不可分に関わる資料である『続日本紀』や正倉院文書、さらには『万葉集』におけるいわゆる「家持歌日記」のように、その性質上〈実態〉の問題を無視することの難しいテキストも存在する。いかに〈実態〉を排除した禁欲的な読みを追究しようとも、傍証として参照される資料も含めたあらゆるテキストに対して、一貫して〈実態〉への言及を避け続けることには限界もあるだろう。
 では我々は、様々な異なる性格をもつ古代のテキストと、そこに否応なく立ち上がる〈実態〉に対して、どのような立場を取るべきだろうか。いま、あらためてテキストとしての読みと〈実態〉の問題について考えてみたい。

シンポジウム

【日時】2025年7月13日(日)13:00~17:30

【場所】オンライン(Zoom)併用のハイブリッド形式で開催
・対面 東京都立大学南大沢キャンパス1号館210教室
・Zoom https://zoom.us/meeting/register/hvEA1UKLTxqsTcO_7XCDxw
※資料は前日までに以下のGoogleDriveにアップロードする予定です(セミナーと共通のURLです)。https://drive.google.com/drive/folders/1rn1JkHxrSXEGLo0_FCiLOoiXSGxhwi6G?usp=drive_link

シンポジウム発表者・題目・発表要旨

品田 悦一「橘佐為はなぜ歌を詠まないのか――疫瘡猖獗を読み取らせる仕掛け――」
 『万葉集』巻六には佐為王改め橘佐為が三回登場する。天平六年の末尾に配された一〇〇四歌の左注、天平八年冬十一月九日の一〇〇九歌の左注、および天平九年春正月の一〇一三~一四歌の題詞である。足かけ四年、歌の数にして一一首という限られた範囲にたびたび名を記されるのだが、歌は一首も詠んでいない。どういうわけだろうか。
 昨年発表した拙稿に説いたように、巻六は作歌年月日順に歌を配列する一方で、天平元年と天平七年、および天平九年の五月以降に空白を設けるとともに、空白どうしを連繋させて、一続きの物語を紡ぎ出している。天平七年から九年にかけて甚大な被害をもたらした悪疫は、天平元年に謀殺された左大臣長屋王の祟りなのだ、という物語である(「『万葉集』巻六に刻まれた聖武朝の盛衰」『文学・語学』二四一、二〇二四年八月)。
 拙稿発表後に気づいたのだが、天平元年の空白は、九五四歌の作者膳王および九五五歌に詠み込まれた「佐保の山」と相俟って長屋王事件を想起させるだけでなく、前後に設けられた縁取りが空白の存在を際立たせている。直前に九六〇歌・九六一歌を並べ、大宰帥大伴旅人の胸裏にせめぎ合う公私の情を象る一方、直後には、事件の翌年に筑紫を訪れた大伴道足を旅人が饗応した際の歌を配する。道足は、大伴一族ながら藤原四子に近かった人物で、長屋王密告の翌日に権参議に取り立てられていた。
 橘佐為関係の三歌群も、これと同様に、天平七年と九年五月以降の空白を目立たせるための仕掛けと見られる。佐為は、天平九年に相次いで落命した高官たちの一人であって、登場箇所が九年の空白部の直前に集中するのは、空白の期間に疫死した事実に想到させるために違いない。場面にはしばしば顔を出すのに歌を詠まないのは、物言わぬ人となったことの暗示だろうし、一〇一五歌で榎井王が当夜の本人に成り代わってみせるのも、単なる「追和」ではなく、追悼の意を込めてのことなのだろう。

宋 晗「自注の機能――山上憶良晩年の自己表現をめぐって――」
 「沈痾自哀文」(『萬葉集』巻五)は、天平五年(733)、74歳の山上憶良が作った漢文であり、病苦に苛まれた垂暮の悲哀と葛藤が綴られている。『抱朴子』をはじめとする漢籍が引用され、対句主体で構成されている同作(駢文体)については、思想性や自己認識など、いわゆる作者の内面が論じられてきた。本報告では、憶良の内面に関わる考察ではなく、それを可能にした作品構造に議論の焦点を絞りたい。先行研究の蓄積は、同作に、言ってみれば近代文学的な読解に耐え得る構造が備わっていることを示している。憶良の創作活動を経て生み出された「沈痾自哀文」の構造が、同作に対する豊かな読みを導いたとするならば、構造そのものに対する分析もまた、作品への理解を深めるのに有効と思われる。
 「沈痾自哀文」の作品構造については、本文の行間に挿入された自注に分析の重心を置く。同作の自注は、難解な語句についての注解だけでなく、箇所によっては本文に語られていない憶良の生活の断片や心境が綴られている。そうした自注も、つとに小島憲之氏が「他者に示すための文芸的なもの」(『上代日本文学と中国文学 中』、1964)と指摘するように、憶良の内面の反映として読み得るのだが、文芸的であることの意味にはなお検討の余地が残されている。本文+自注という構成は、はやく謝霊運「山居賦」(『宋書』謝霊運伝)に見出されるものであり、同作における本文と自注の相補的関係は齋藤希史氏によって明らかにされた(「謝霊運の山居――<居>の文学(二)」、2000)。もとより、謝霊運から憶良への影響は裏づけとなる資料に欠けるため、詳らかにはできない。しかし、影響の有無に拘わらず、本文+自注という構成は、漢文による自己表白の一つの論理的帰結であったと考えられるのではないか(つまり、対句主体の駢文を乗り越える中唐古文が勃興する前の段階においては)。六朝文学研究の知見を踏まえ、老境の憶良がいかにして漢文に実態を刻印したのかを考えてみたい。

仁藤 敦史「藤原仲麻呂と『藤氏家伝』―鎌足伝を中心に―」
 藤原仲麻呂および『藤氏家伝』に象徴される鎌足・不比等についての情報操作=「功臣伝の創出」は単なる名誉ではなく実利的な側面(恵美家の藤原氏内部での本宗家扱い、および太政大臣・近江国司・功封などの世襲化)を含めて評価する必要がある。仲麻呂の課題は、ポスト壬申の乱体制の構築であり、それが藤原氏の地位強化につながることを認識していた。従来の通説は、基本的に仲麻呂により創出された功臣たる鎌足・不比等像に従ってきたが、鎌足から道長に至る藤原氏による予定調和的な陰謀史観を相対化するには、王権内部における客観的な位置づけは、仲麻呂による祖先顕彰の指向性を除いて考える必要がある。
 仲麻呂による鎌足・不比等の顕彰は七六〇年ごろに成立した『藤氏家伝』に象徴されるが、これ以外にも仲麻呂らが作成した七五六年六月の「東大寺献物帳」にみえる黒作懸佩刀の由緒は、不比等を皇位継承に関与したキングメーカーとして位置づけるものである。しかしながら、この文書も文字通りに信用することはためらわれる点が多い。
 「鎌足伝」については、『日本書紀』と同文の箇所が存在し、密接な関係が想定される。一方で、独自な記載もあり、『日本書紀』との関係の濃淡が議論されている。こうした「鎌足伝」の史料的性格により解釈には慎重な批判が必要となる。全体として『家伝』が強調する要素としては、藤原南家、藤原氏と天皇家の関係、近江国と近江朝廷、外交・漢籍・仏教などが指摘されている(佐藤信説)。『家伝』には、天智天皇と鎌足が政治をおこなった近江朝廷の時代を礼儀や律令が整備された理想的な時代とする意識があり、儒教政治や唐風化はその理想の時代の発展として意味づけられる。そして祖先が与えられた内臣・内大臣の継承を、藤原氏の中でも恵美家のみに限定し、自身の内相就任から遡って顕彰しようとしている。

夏期セミナー

【日時】2025年8月22日(金)13:00~17:30、23日(土)10:00~17:30

【場所】オンライン(Zoom)併用のハイブリッド形式で開催
・対面 東京都立大学南大沢キャンパス1号館109教室
・Zoom https://zoom.us/meeting/register/dzP3OsHSQEKKJdL_mvmXLA

※資料は前日までに以下のGoogleDriveにアップロードする予定です(シンポジウムと共通のURLです)。
https://drive.google.com/drive/folders/1rn1JkHxrSXEGLo0_FCiLOoiXSGxhwi6G?usp=drive_link

夏期セミナー発表者・題目・発表要旨

小橋 龍人「「小野小町」とうたの表現の位置――「かけことば」が立ち上がるとき」
 六歌仙時代は「かけことば」が劇的に発達した時期だと表現史の上でいわれているが、その用例の多くは「小町」のものである。生没年の明らかな「業平」や「遍照」の歌ではなく、出自も不明な「小町」の歌の表現が六歌仙全体の歌を形づくっていることにもなる。それが表現史の一時期を代表する歌の表現として、研究においても通説的に捉えられていることは、『古今集』というテキストに立ち上がっている〈実態〉に影響された結果ととらえることができるだろう。「六歌仙」という括り、これを表現史の中で取り上げること自体、『古今集』の「仮名序」というテキストが作り出している〈実態〉の上に成り立っていると説明できてしまうからである。
 このような視点に立つと、「小野小町」なる歌人名が作り出している〈実態〉について表現に絡めて分析することは、「歌人」という固有名がどのように像を結ぶか、一般論としてではなく、表現史の中で考察するひとつの理由になると考えられる。
 その上、「かけことば」という表現技法自体も、なんらかの文脈に依存しながら歌の中に立ち上がるものである。歌の表現に立ち上がる〈実態〉の解明という点において、今回のテーマに即した形で分析することが可能であろう。
 今回は主にこの二つの問題を重ねながら考察することで、テキストに立ち上がる〈実態〉の問題を明らかにしたい。
 特に『古今集』に立ち上がる「小町」の歌が結ぶ像は、『小町集』、『伊勢物語』などに受け継がれているが、その後の書物も含めれば、受け継がれていないもの、『古今集』とは異なっている〈実態〉が立ち上がっているものもある。『古今集』という勅撰集に立ち上がる〈実態〉が他のテキストに対してどのように影響を及ぼしているか、または及ぼしていないかに触れることで、立ち上がる〈実態〉の立ち上がらない部分についてもいくつかの問題を提起することになるであろう。

大浦 誠士「「歌集」テキストの重層性――遣新羅使人歌群「当所誦詠古歌」を中心に――」
 前稿「「歌集」のテキスト性をめぐって――『万葉集』巻六終末部における「重層性」を手がかりに――」(『論集 上代文学の明日を拓く』翰林書房、2024・12)において、「歌集」というテキストが、一部作品を切り取って解釈する場合と、それが配列されてある形で見る場合とで、意味を変化させる様相を分析し、「歌集」というテキストが持つ「重層性」について考えてみた。「立ち上がる〈実態〉をいかに捉えるか」をテーマとする今年の古代文学会夏期セミナーで発表することになったのも、その論の関係であろうと思われる。今回の夏期セミナーでは、万葉集巻十五の遣新羅使人歌群中の「当所誦詠古歌」を中心に据えて、上記のような問題を考えてみたい。遣新羅使人歌群については、大浜厳比古氏の「実録風創作(トキュメンタリ・フィクション)」として捉え、実録部と創作部とを腑分するような読み方がなされてきたが、あくまでテキスト上に展開される旅の歌として読み解くべきことが主張されつつある。それはもちろん、正当な読解の方法である。ただし、ここでもそのテキストの形、「歌集」というテキストの形が気になるところである。前述のように、テキストをどのように切り取るが、あるいはどのような角度から見るかによって、見え方を変えるのが「歌集」というテキストなのではないかと考えるからである。それが端的に表れるのは、歌群前半の末尾に載せられている「当所誦詠古歌」と称される一群であろう。一群の歌は、遣新羅使人歌群という大きなテキストの中にありながら、編纂の〈実態〉とそこに働く〈認識〉、そしてさらにその向こう側に使人による「誦詠」の〈実態〉を垣間見させる形となっている。それらはすべてテキスト上での出来事なのだが、そのような重層的な形を有しているのが、「歌集」というテキストなのでないか。そして「歌集」テキストの重層的なありかたは、歌の享受の二面性と深く結びつく問題なのではないかと考えている。

青柳 まや「『先代旧事本紀』におけるニギハヤヒの死の役割について」
 『先代旧事本紀』(以下『旧事紀』)は、物部氏が関与する氏族側の歴史書(氏文)であり、九世紀に成立したと考えられている。氏文は、その成立の性質上、氏族の歴史やありようといった〈実態〉の問題を無視することが難しいテキストであるといえる。
 『旧事紀』において、物部氏の祖とされるニギハヤヒは、アマテラスとタカミムスヒの血を引く天孫、また、皇孫として神統譜に定位されており、弟であるホノニニギに先行する天孫降臨伝承をも有している。『旧事紀』における天孫ニギハヤヒは、アマテラスの詔を受けた父アメノオシホミミに代わり、地上世界を統治するために高天原から降臨する。しかし、ニギハヤヒは、ナガスネビコの妹であるミカシキヤヒメを妃とした後、子であるウマシマジが誕生する以前に神避り、その遺骸はタカミムスヒによって天上に収められる。ニギハヤヒの死は、先行する『古事記』や『日本書紀』、また『古語拾遺』には見えない『旧事紀』独自の伝承である。
 ニギハヤヒをホノニニギと同格の血統を有する天孫として定位することで、物部氏の血の聖性を説くことを志向するはずの『旧事紀』が、ニギハヤヒを命の有限性を負った存在として描出し、その死を神代史の中に定位するのには、どのような意図や役割があるのだろうか。
 本発表では、先行研究では殆ど解明がなされてこなかった『旧事紀』におけるニギハヤヒの死の役割を明らかにすることを目的とする。
 氏文とは、その書を著した氏族にとって、自氏の立場や歴史性、また、職掌の正当性の拠り所を保証する理想の歴史を記した書であるといえる。ニギハヤヒの死を「テキストから立ちあがる実態」の問題として見据える時、物部氏の氏文である『旧事紀』において、ニギハヤヒの死は、いかなる意味を生成していると捉えられるのか。『旧事紀』が編纂された九世紀という時代の歴史的背景などとも関連させながら、伝承から浮かび上がってくる〈実態〉について考えていきたい。

稲生 知子「仁明天皇四十の賀奉献長歌を〈日本紀〉から読む―「現人神」をめぐって―」
 「現人神」といえば、天皇即現人神思想から、当代天皇を指すことが自明のことだと考えられている。しかし、当代天皇を指すことが確実な用例は平安時代になって確認される。『続日本後紀』巻十九嘉祥二年(八四九)三月二十六日条「仁明天皇四十賀奉献長歌」として興福寺の僧侶が奉げた長歌である。我が国の天皇が長く続いていることを挙げ、「御世御世に 相承け襲(つ)ぎて/皇(きみ)毎(ごと)に 現人神と/成り給ひ 御坐しませば」と、天皇ごとに現人神となって天皇が続いてきたことを称揚する。当代天皇=現人神以外の解釈は入りこむことは出来ないだろう。「現神」「現御神」(詔勅など)のように表現されてきた当代天皇への認識が、「現人神」の語で表現された瞬間である。
 この長歌は、近藤信義氏[1]によって近年詳細な注釈が施された。近藤氏は「この奉献長歌の構想自体の解明が必要と思われ、その上でその評価が為されるべきと考える。この奉献長歌には検討すべき事柄がまだまだ潜んでいると思われる」とされている。本発表では、近藤氏の解明した長歌解釈に導かれ、「検討すべき事柄」として、平安時代固有の〈日本紀〉としての側面を捉えることを目的としている。
 仁明天皇時には、承和十年(八四三年)に承和日本紀講が開かれたことが記録されている。現在、竟宴和歌として残っている歌には仁徳天皇を得て歌われたものとして「大鷦鷯/天皇が世より/立つ煙/天の日嗣に燃えまされるかな」(仁徳天皇の治世以来、天皇位がつながっているように竈の煙が燃え続けている)とある。天皇の世が世代を超えて続いていることへの意識は強くなっている。
 「現人神」という語が当代天皇と結びついていく発想は日本紀言説のなかで捉えることが可能なのではないだろうか。